そして、ここに現在の最も困難な問題として立ちはだかる、復興をめざす諸問題の解決の糸口があるのではないかと思うようになりました。今、被災者は、すべてが二項対立の中に置かれています。「帰る・帰らない」「原発反対・推進」をはじめとした極端な選択の中で苦渋の選択を迫られています。これは被災者の皆さんの問題ではなく、そうした単純な選択を強いる国、行政の政策の貧困さに大きな責任があります。直近では、双葉町・大熊町の中間貯蔵施設設置について、国は両町の対象地域になっている一地権者との個別交渉で決められているという現実です。これは、産業・生活など人間の全営みの場としての社会と、原発・放射能のもつ履歴と意味を全くわかっていないとしか思えません。一地権者、一行政としての町・県、そして国のレベルでは解決できないものが原発・放射能であることは、事故以降の様々な問題を見ても明らかです。原発・放射能に向き合うことができるのは、人間総体としての人類というレベルでしか交渉できないものなのです。原発とは、そういうレベルのものなのです。ですから、それを一地権者に人類レベルの責任を負わせようとする無責任さに、飽きれてしまい、恐怖を抱きます。少なくとも日本は、国として原発を扱う資格はありません。
だからと言って、原発事故を反故にすることはありえません。それはまた別の機会にでも書きたいと思いますが、ご緒紹介した佐藤さんのお考えは、ある意味で時代を先取るきわめて先進的な思想につながっていく可能性を感じます。
佐藤さんが本書で調査した双葉郡というフィールドは、原発事故による放射線で激しく汚染されたエリアとまったく同じです。これが偶然なのか何か暗示するものなのかはわかりませんが、確かなことは、このエリアには入れないので、佐藤さんが調査した石仏の、あえて「安否」を確認することができないということです。ということは、これら2,000体の石仏に刻まれた膨大な歴史と文化は放置されたまま消滅を待つだけです。浪江町が、そして双葉郡が拠って立つアイデンティティを、放射能ごときで捨てていいのでしょうか。
僕は、この2,000体を1つずつ訪ねたい。会って聞いてみたい。あなたはこの方角に居たんですかと。佐藤さんから聞いたなかで最も印象的だった言葉、それは、
「僕は野仏を見ると、本当はどこを向いて立っていたのかわかるんだよ」
このセンスを持つ人、今いるでしょうか。これを感じ取れる人を素敵と思えるセンスを、僕たちは忘れてしまっているのではないでしょうか。原発事故から復興するためには、原発事故と呼ぶ由来の科学性、パラダイム(枠組み)から解放されなければ、僕たちが描きたい浪江町にはなりません。今は目前を生きるための復興計画は必要です。そして、それは浪江町のアイデンティティを大切にすることによって、初めて浪江町は復興できるのです。
その意味を込めて、『村の野仏たち』を後世に伝えるために、データ化しようと思います。本書は大きく分けて、「石仏・石神」と「名石」となっています。かなりの量なので、最後まで行き着くのはいつになるかわかりませんが、ありし日の浪江町や双葉郡の懐かしさに入力しながら涙する文章に数多く出合い、今は亡き佐藤さんに改めて感謝の気持ちでいっぱいです。
私たちは、本書を通して著者の佐藤俊一さんから、時代を越えてふるさとを愛するためのヒントを教えられました。そして、それは現在の浪江町を含めた双葉郡、さらには日本が復興するための大きなヒントとなっていることを確信しました。
石仏・野仏たちは、いつの時代にも多くの市井の人たちのささやかな願いを受け、安らぎを与え続けてきました。この先人と自然の心の営みに深い断裂をもたらした今回の原発事故ですが、まるでそれさえも見通したような本書は、原発事故ごときを乗り越える高い精神性を備えています。 その一端でもお伝えできれば、望外の喜びです。
また、本書が取り持つ縁で、今野正悦さんとつながることができました。今野さんは津島公民館長で史跡探訪教室を主宰し、本書を参考として地元の津島地区の石仏を有志で調査し、『津島の石仏・石塔』という冊子にまとめました。この冊子は、佐藤さんが書かれた本書をもとにさらに詳細調査を行い、しかも写真はカラーなので、とても貴重な資料となっています。津島地区は放射線量が高い地区で、今でも帰還困難区域として制限されてだけに、とても貴重な冊子です。今野さんにも転載を快諾いただいていますので、順次公開していきます。
第1回はこの本の表紙にもなっている六地蔵の一節を紹介します。これは富岡町の浄林寺にある石仏です。これも何かの縁でしょう。ご住職の早川さんと連絡を取って話すことができました。そして今回のシリーズで『村の野仏たち』を取り上げることをとても喜んでいただけました。いつかお会いしたいと思います。